【豊臣兄弟】豊臣秀長ってどんな人?秀吉の実弟で政権ナンバー2を解説

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 2026年の大河ドラマの主役は豊臣秀長。
 これを聞いて、歴史にあまり詳しくない人には初めて名前を聞いた人もいるのではないでしょうか?

 大河ドラマのタイトルにもある通り、豊臣秀吉の兄弟で豊臣政権の実質的なナンバー2のひとりです。
 無名時代から兄の秀吉を支えて、最終的には内政や軍事を統轄する仕事をしつつ110万石の領地を得る大大名にまで出世します。

 この記事では、豊臣秀長についてその生涯を中心に解説していきます。
 大河ドラマを見るために参考書としてお使いください。

生涯

 前半は信長の家臣としての時代から見ていき、その後は独立した秀吉の側近としての秀長を見ていきましょう。

信長の時代

 1540年に秀吉の異父弟として生まれました。出身地は尾張国愛知郡。

 しばらくは無名の農民として暮らしてきましたが、秀吉が隊長クラスまで出世したころには、その部下として働くようになります。
 秀吉が長浜城を与えられた時には、城代になったりと秀吉の出世を大いに助けています。

 秀吉が忙しくて信長の戦いに駆け付けられない時には代理で出陣したり、毛利攻めの際には別動隊の大将を務めたり、織田政権時代から秀吉の腹心として頭角を現していました。

秀吉の時代

 本能寺の変がおき、急ぎ仇討ちのために引き返して(中国大返し)明智光秀との戦い(山崎の戦い)に挑みます。
 この時の秀長は、黒田官兵衛と共に天王山防衛を担当しています。

 賤ケ岳の戦いにも参戦し、この頃に但馬と播磨を拝領しますが、実質的な支配は各地の領主が担当しています。

 その後に徳川家康&織田信雄との戦い(小牧・長久手の戦い)にも参戦。秀吉は小牧山にいる家康と戦い、秀長は信雄領の伊勢国に侵攻。本戦では負けていたものの、秀長が深部まで進攻したことで総大将の織田信雄との和睦が成立して実質勝利にもっていくことができました。

 紀伊征伐では、秀吉の副将を担当し完了後には和泉国や紀伊国などを拝領。この時に秀長時代の和歌山城が築城されます。(普請奉行は藤堂高虎

 四国征伐の際には病気中の秀吉の代わりに総大将として出陣。長期化しながらも成功させます。
 この頃に、豊臣秀長と名乗るようになります。

 四国征伐の功績で100万石の大大名となり、大和大納言と呼ばれるようになります。

 九州征伐の前には、豊臣政権のナンバー2の地位を固めました。
 その後も病気が悪化して小田原征伐に参加できなかったりするものの留守居を務めるなど影響力を示していましたが1591年に亡くなってしまいます。

まとめ

 詳しい解説をしている専門サイトがあると思いまうので、詳しくはそちらを見てほしいのですが、この記事でもザックリ学べたと思います。
 このサイトではこのように、歴史をざっくり学べるような記事を用意しています。
 ぜひ他の記事も読んでいってください。

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